日本では、ヴェラ・チャスラフスカの名は1964年以降、チェコ共和国(当時はチェコスロヴァキア)のシンボルとなりました。ヴェラ・チャスラフスカほど日本でよく知られたチェコ人はおらず、出身を聞かれて「チェコ」(日本語でチェコ共和国または旧チェコスロヴァキアを指す言葉)と答えると、多くの日本人はニッコリして「ヴェラ・チャスラフスカ!」と言うでしょう。 五輪7連覇、世界選手権4連覇、欧州選手権11連覇を達成したチェコスロヴァキアの体操選手ヴェラ・チャスラフスカは、1942年5月3日にプラハのカルリーン地区ソコロフスカ通り351/25番地で生まれました。2022年からはこの番地に記念プレートが掲げられています。幼少期からフィギュアスケートとバレエに親しんだヴェラは、14歳から体操競技を始め、間もなくチェコスロヴァキア、欧州、世界で成功を収めるようになります。1964年の東京夏季五輪で、ヴェラはキャリアの頂点に登り詰めました。個人総合と跳馬で金メダルを獲得したののです。アスリートとしてのパフォーマンスや強い意志だけでなく、感じの良さと飾らない魅力で、日本全国民のハートをつかんだといっても過言ではないでしょう。五輪開催中、すぐに「五輪の華」と呼ばれ人気を博しました。4年後のメキシコ夏季五輪では、個人総合、跳馬、段違い平行棒、ゆかで金メダルを獲得しました。また平均台と団体種目では銀メダルに輝きました。メキシコでは1968年8月のワルシャワ条約機構軍のチェコスロヴァキア侵攻と占領に対し、ヴェラが無言の抵抗を行うという一幕もありました。表彰台に上がり、ソヴィエト国家の演奏が始まった時、顔を背け地面の方を見たのです。その年、ヴェラ・チャスラフスカは世界トップのアスリートの座を手にしましたが、自国ではその英雄的行為の代償として、キャリアの剥奪と屈辱が待ち受けていました。1968年、ヴェラは「二千語宣言」に署名しています。その2年後、彼女はチェコ体育連盟から除名されました。1970年代末から80年代初めにかけてメキシコに滞在し、体操の指導に当たったため、メキシコでもヴェラの名は非常によく知られています。ヴェラ・チャスラフスカが表舞台にようやく戻れたのは1989年11月のビロード革命のさなかで、ヴァーツラフ広場の「メラントリヒ」出版社のバルコニーに、ヴァーツラフ・ハヴェルと共に立ち、デモに押し寄せた群衆に向かって語りかけた時でした。1990年にはヴァーツラフ・ハヴェル大統領の下、社会問題とスポーツのアドバイザーを務めることになり、首都プラハの市長や日本大使のポストを勧める声もありましたが、辞退しています。日本の各テレビ局が、ヴェラ・チャスラフスカのドキュメンタリーを多く撮影(最後に作成したのはNHK)していますが、祖国も決して彼女を見捨てたままにはしませんでした。チェコの映画監督オルガ・ソメロヴァーは『ヴェラ68』という長編ドキュメンタリーを製作し、日本でも上映されました。2024年8月には東京のプーク人形劇場で、チャスラフスカに捧げる作品が上演されました(プーク人形劇場とチェコ・ピルゼン市のアルファ劇場との共演)。共産主義政権に抵抗することも厭わなかった、勇気ある女性ヴェラ・チャスラフスカは、2016年8月30日に74歳で永眠しましたが、最後まで日本を忘れることはありませんでした。