チェコ人といえば音楽家:モーツァルト、ドヴォルザーク、スメタナに愛されたプラハ

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チェコには「チェコ人と言えば音楽家」という諺があります。これはチェコ民族が音楽と楽器演奏を、昔から愛好してきたことに由来しています。そして首都プラハは、チェコの名を世界に知らしめた多くの演奏家と作曲家を輩出したことで有名です。

日本ではベドジフ・スメタナ(1824-1884)や アントニーン・ドヴォルザーク(1841-1904)を初めとするチェコの作曲家は非常によく知られており、レオシュ・ヤナーチェク(1854-1928)、ボフスラフ・マルティヌー(1890-1959)、ヨゼフ・スーク(1874-1935)といった名前も知名度ではそれに劣りません。スメタナの『ヴルタヴァ(モルダウ)』やドヴォルザークの『ユモレスク』、『交響曲第9番「新世界より」』第2楽章ラルゴには日本語の歌詞がつけられ、学校で子供たちが歌う曲となっています。ドヴォルザークのラルゴ(日本では『家路』という曲名で知られています)は、夕方町内放送のスピーカーから、子供たちに家に帰る時間を知らせるために流されています。ビロード革命でチェコスロバキアが自由化された1990年5月、プラハ旧市街広場でラファエル・クベリーク(1914-1996)が青空の下指揮棒を振った「プラハの春国際音楽祭」は、日本全国で中継されました。

ピアニストのルドルフ・フィルクスニー(1912-1994)も、度々日本を訪れていました。ユダヤ系作曲家のパヴェル・ハース(1899-1944)とハンス・クラーサ(1899-1944)は、ナチスによる虐殺の犠牲となりました。高名なチェコのバロック音楽の作曲家ヤン・ディスマス・ゼレンカ(1649-1745)も、プラハを拠点とした一人です。チェコのジャズや、チェコ「小劇場」の音楽を愛好する日本人のあいだでは、イジー・シュリトル(1924-1969)の作品や、世界的ジャズベーシストのイジー・ムラーツ(1944-2021)の演奏が親しまれています。チェコ映画ファンであればヴェラ・ヒティロヴァー(1929-2014)の『ひなぎく』と、そこで重要な役の一つを演じている作曲家ヤン・クルサーク(1934-)は周知のことでしょう。ヤン・シュヴァンクマイエル(1934-)の映画を愛する人なら、ズデニェク・リシュカ(1922-1983)の映画音楽が脳裏に浮かぶのではないかと思います。チェコの作曲家や演奏家の生没年には末尾が4の年が多いのに気づいた方もいるのではないでしょうか。その理由から、昨年2024年は「チェコ音楽の年」に指定されていました。

Prague National Theatre around the year 1900 | Photo: Prints and Photographs division of Congress Library; source: Wikipedia

ヴルタヴァ川の岸辺、カレル橋のすぐ脇に、ベドジフ・スメタナ・ミュージアムが建っています。スメタナはプラハ2区に住み、1866年から「仮劇場」のオーケストラを指揮していましたが、そこに1862年からアントニーン・ドヴォルザークがビオラ奏者として在籍していました。ドヴォルザークの「もし私が機関車を発明できたのだったら、私のすべての交響曲を捧げただろうに」という言葉は有名です。ペシュト[AE1] 行きの列車に乗っている時に『ユモレスク』の曲想が浮かんだというエピソードも、彼の鉄道好きを物語っています。ドヴォルザークはプラハ中央駅やヴィノフラディのトンネル、ヴィシェフラドの下を通る鉄橋の近くへ行って、通過する機関車の音を聞いて楽しんでいたといいます。18世紀初頭に建てられたバロック様式の夏の離宮「アメリカ」(著名な建築家キリアン・イグナーツ・ディーツェンホーファーの作)は、現在アントニーン・ドヴォルザーク博物館になっています。 スメタナ、ドヴォルザークを初めとするチェコの著名な作曲家たちはヴィシェフラド墓地に埋葬されており、たくさんの観光客が訪れています。チェコ出身ではない作曲家にとっても、プラハは重要な場所でした — ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(1756-1791)もプラハを愛し、今日まで続くプラハのスタヴォフスキー劇場で、世界的に有名なオペラ『ドン・ジョヴァンニ』(1787)や、レオポルト2世のボヘミア王戴冠式に際して作曲された『皇帝ティートの慈悲』(1791)の初演を行っています。また交響曲第38番「プラハ」も、プラハで初演しています。モーツァルトはプラハを好んで何度も訪れ、「私のプラハの人々は私を理解している」(„Meine Prager verstehen mich“)と言ったことは有名です。モーツァルトがプラハで滞在していたのは「ベルトラムカ」という邸宅ですが、そこは彼の髪の毛が展示されているということで知られています。モーツァルトの死後、未亡人となったコンスタンツェと子供たちの生活費をプラハの人々が負担したほど、その関係は深いものでした。

Villa Bertramka | Source: www.bertramka.eu

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