サラ・ベルナールに永遠の命を与えた画家

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ポエティック・アールヌーヴォーの象徴 アルフォンス・ミュシャ

たった一枚の劇場ポスターで、貧しい絵描きだったアルフォンス・ミュシャは一夜にして、パリのトレンドリーダーとしての地位を獲得しました。女優のサラ・ベルナールはミュシャの作品を見るなり、彼は私を不死身にした、と言ったそうです。その名前はアール・ヌーヴォーの同義語となって「ミュシャ様式」とも呼ばれるようになり、2017年にその壮大な作品群を集め東京で開催された『スラブ叙事詩展』は、19世紀のアーティストの展覧会としては世界でも過去最高の来場者数を記録しました。ミュシャ自身、自分の絵は開いた目を通して、見る人の魂に届くと語っていましたから、驚くことではないのかもしれません。あなたもそれを体験することができるような場所が、プラハには複数あります。

それは1894年のクリスマスが明けた日のこと、ほとんど無名のアーティストだったアルフォンス・ミュシャの元に、パリの印刷所ルメルシエの所長から、女優サラ・ベルナールのポスターを描いてほしいとの依頼が舞い込みました。ちなみに、この注文には一つ厳しい条件がありました——元日の朝までに完成したものを貼りだすように、ということです。クリスマスを祝う金もなかったミュシャは、すぐに仕事にとりかかり、印刷所の所長が当初懐疑的だったにもかかわらず、フランス最高の女優と言われていたベルナールは、戯曲『ジスモンダ』のポスターに文字通り感激しました。パリ市民のあいだでも、ミュシャのポスターはセンセーションを巻き起こしました。貼っている者に金を握らせて、ポスターを手に入れる人もいたと言われています。広告板からカミソリでポスターを切りとって持ち去る者まであったそうです。何がそれほどまでに画期的だったのでしょうか?それは絵画の表現と色彩のまったく新しい手法で、当時としてはまさに革新的でした。ミュシャはその後6年間にわたってサラ・ベルナールのために、ポスターだけでなく、舞台装飾や衣装、アクセサリー、髪型のデザインまで手がけています。

続く10年間、ミュシャは応用芸術に新しい風を吹き込んだ、アール・ヌーヴォーを代表するアーティストとしての地位を確実にしていきます。ヨーロッパ全土に広がった芸術様式としては、これが最後のものとなりました。ミュシャの元にはひっきりなしに仕事が舞い込み、金銭的にも潤いました。制作に打ち込むかたわら、人生を楽しむ余裕もありました。パリでは友人たちを招いて、贅を尽くした豪奢なパーティーを開くことで有名でした。画家のポール・ゴーギャンもその中の一人で、ミュシャは数年にわたって、ゴーギャンとアトリエをシェアしています。

ミュシャの才能はすぐにアメリカでも知られるところとなり、世界最高の装飾芸術家として歓迎されました。ニューヨークでは絵画講座で教え、「ドイツ劇場」の観客席の装飾を手がけ、様々な雑誌のイラストを担当しました。どんなに成功を収めても、ミュシャは熱烈な愛国者であり続けました。スラブ民族の歴史を絵にすることを、ずっと夢見ていたのです。そしてついにその運が回ってきました。アメリカで資金を提供してくれる人が見つかり、1910年、夢に見た『スラブ叙事詩』の連作に着手したのです。20枚の巨大なキャンバスを使った大作に、ミュシャは18年の歳月を費やしました。完成した作品は、パトロンのチャールズ・クレーンがミュシャと共に、プラハ市に寄贈しました。

その頃プラハからは、新しく建った市民会館の壁画の制作依頼が来ていました。ミュシャはこの仕事をぜひとも受けたいと思い、アメリカからプラハに戻りました。「市長の間」の装飾を依頼されたミュシャは、これを無償で引き受けることにしました。その見事な成果は、今日でも実際に目にすることができます。

私の作品の目的は決して破壊することではなく、建設すること、橋を架けることだ。なぜなら、私たちは皆、地球上のすべての人々が親しくなれるという希望に生かされなければならないからだ。そして互いをよく知ることができればなおさら、それが容易になるだろう。

アルフォンス・ミュシャ

その頃プラハからは、新しく建った市民会館の壁画の制作依頼が来ていました。ミュシャはこの仕事をぜひとも受けたいと思い、アメリカからプラハに戻りました。「市長の間」の装飾を依頼されたミュシャは、これを無償で引き受けることにしました。その見事な成果は、今日でも実際に目にすることができます。

当時ミュシャは家族と共に、マラー・ストラナのトゥーン宮殿3階にある、5部屋の家に住んでいました。現在イタリア大使館となっているこの建物には、アルフォンス・ミュシャの肖像が彫られた記念プレートが掲げられています。

1918年以降、ミュシャはその才能を、新生チェコスロヴァキア共和国に捧げるようになります。国章だけでなく、新しい国の最初の郵便切手や紙幣のデザインも手がけ、紙幣に関してはその芸術性の高さからヨーロッパで最も美しいと評されました。これらの仕事も、ミュシャは無報酬で行いました。「ムホフキ(ミュシャ紙幣)」と呼ばれる紙幣コレクションは、チェコ国立銀行の紙幣展示室で目にすることができます。

ミュシャは画家であり、グラフィックデザイナーであり、装飾家であり、また肖像画家でもあり、大旋風を巻き起こした広告ポスターの作り手でもありました。生涯、朝は5時に起床していました。芸術家がよい結果を出すためには、1日少なくとも16時間は仕事をしなければ駄目だ、というのが持論でした。パリにいた時から、友人たちはミュシャのことを、王様のように暮らし、奴隷のように働く男だ、と噂していました。そのお陰で、生きている間にこれほどの名声を得ることができたのです。最もその才能を認めたフランスからは、レジオンドヌール勲章が授与されました。ミュシャの名を取って、小惑星にも5122ミュシャという名が付けられています。

第2次世界大戦でナチスの軍隊がチェコスロヴァキアに侵攻すると、ミュシャはいち早くゲシュタポに捕らえられました。尋問を受けて間もなく、1939年7月14日に、ミュシャは亡くなりました。その墓はヴィシェフラド墓地にあり、チェコの著名人が多く埋葬されるスラヴィーンと呼ばれる霊廟に納められています。ミュシャの素晴らしい創作の数々は、プラハのパンスカー通りにある「アルフォンス・ミュシャ・ミュージアム」、そしてサヴァリン宮殿の「ミュシャ・ミュージアム」で目にすることができます。

Thunovský palác | Photo: A. Červená

ミュシャは20世紀初頭からすでに、日本でも有名でした。日本人に初めてミュシャを紹介したのは、1900年から1908年にかけて有名な月刊文芸誌『明星』を発行していた詩人の与謝野鉄幹です。当時、複数の日本の画家がミュシャの影響を受け、文字どおりその画風を模倣しました。藤島武二(1867-1943)がその一例にあたります。またミュシャのコレクションとしては世界有数を誇るのが、著名な起業家だった土井君雄(1926-1990)の個人コレクションで、土井はアルフォンス・ミュシャの息子イジーと個人的に親交を結んでいました。コレクションは土井の死後、大阪府堺市に寄贈され、立派なミュージアムが建てられました(https://mucha.sakai-bunshin.com/en-mucha)。常設展では、戯曲『メディア』(1898)のポスターで有名な、サラ・ベルナールのためにミュシャがデザインし、高名な宝飾作家のジョルジュ・フーケ(1862-1957)が制作した蛇のブレスレットと指輪を見ることができます。

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